正理会 本部において中杉 弘博士の仏法講義が行われました。
                             
如説修行抄  第ニ回
   
   (本文)
  
 問うて云く如説修行の行者は現世安穏なるべし何が故ぞ三類の強敵盛んならんや、答えて云わく釈尊は法華経の御為に今度・九横の大難に値ひ給ふ、過去の不軽菩薩(ふぎょうぼさつ)は法華経の故に杖木瓦石(じょうもくがしゃく)を蒙り・竺(じく)の道生は蘇山に流され法道三蔵は面(かお)に火印をあてられ師子尊者は頭を刎ねられ天台大師は南三・北七にあだまれ伝教大師は六宗に憎まれ給へり、此等の仏菩薩・大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり、此れ等の人人を如説修行の人と云わずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん、然るに今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上悪国悪王悪臣悪民のみ有りて正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば国土に悪鬼乱れ入りて三災・七難盛に起これり、かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生まれけるこそ時の不祥なれ、法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起し忍辱の鎧を著(き)て妙教の剣を提(ひっさ)げ一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり正直捨権の をはげて大白牛舎(びゃくごしゃ)に打乗って権門をかつぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ或はひきしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる、或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍(いくさ)やむ事なし、法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌(つちくれ)を砕かず、代は義農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。 


(講義)

如説修行抄とは、説の如く修行することです。どのように修行したらよいかを、日蓮大聖人様が教えて下さった御書を如説修行抄といいます。末法におけるところの仏法の修行とは、どのようなことをすればよいのか。どのようにすることが仏になっていく道であるのか。如説修行抄は私たちに易しく親切に教えて下さっています。

前回、講義した内容を簡単におさらいすると、お釈迦様の時代でも猶多怨嫉(ゆたおんしつ)、お釈迦様の悪口を言い、無実でありながら罪をきせようとしたり、そのような難が多く有りました。お釈迦様は、末法の我々から見ると良い時代に生まれた人です。お釈迦様は王子で生まれ、頭も良く、顔も良く、実に美男だったそうです。立派な弟子が揃っていて、そのような時代でした。お釈迦様の仏法は時に適っていました。そのような良い時代なのにもかかわらず、お釈迦様は悪口を言われました。

況滅度後というのは、「況や滅度の後においておや」と読みます。何が「況や」なのか、お釈迦様の時代ですら、お釈迦様は悪口を言われました。「況や滅度の後においておや」とは、お釈迦様がお亡くなりになってから、千年間の時代を正法時代、それから千年間経った二千年までの間の時代を像法時代といいます。「滅度の後」とは、その事をいいます。正法時代(お釈迦様がお亡くなりになって)、千年間はお釈迦様の説を修行する者もいました。人間が素直で、その通りに修行していくと仏になることができたのです。そのような時代ですら、この正しい法を保つ人は迫害され、悪口を言われました。

像法時代においては、正しい事を言われても、もっと悪口を言われました。伝教大師(*1)もそうです。空海が中国から帰ってきて「伝教大師はインチキである」と言いました。伝教大師が「法華経は十界を説く」と言えば、後から来た空海は「いやいや、真言宗のほうが偉い。真言宗は十ニ界を説くのだ」と言ったのです。そして、後から来た空海(*2)は「伝教大師は何も学んではいない。密教については私に聞かなければ分からない」と言って伝教大師をのけものにしようと企んだのです。まさに況滅度後。「如何に況や滅度においておや」。

今の時代は末法。お釈迦様が亡くなられて千年経ち、また千年経ち、そして二千年経った後のことを末法といいます。末法というのは、お釈迦様の仏法の賞味切れという時代です。そこに生まれてくる人間は悪人が多く、仏法に縁の無い人間が充満します。まさに、お釈迦様の仏法が無い末法である。

その末法にはどうしたら、皆が救われるのか。それは、法華経の中に観持品という予言書があり、「末法においては、私以上の仏様が現れて来ます。その仏様の名前は上行菩薩と申し上げます。この上行菩薩が末法に現れて一切を救う」と書いてあります。「私の仏法はもう終わってしまうが、末法は上行菩薩がいるから心配いらない」という予言が観持品の中に書かれてあるのです。

その観持品の中に書かれてあることは、「その人(上行菩薩)は法華経最第一ということを言う。言うがゆえに数々の多くの(数数見擯出)難に遭います。石でぶたれ、島流しに遭い、首も斬られようとします。上行菩薩は、もうとても絶えられないような大きな難に遭います。それが、末法におけるところの法華経の行者である」という予言があるのです。日蓮大聖人様は「私は色々な難に遭ったけれども、そんなことは予言通りです。」数数見擯出(さくさくけんひんずい)、数々の難が現れるのです。

日蓮大聖人様は、一番最初に伊東に島流しに遭い(一ニ六一年 弘長元年五月十ニ日)、次に佐渡島に島流し(一ニ七一年 文永八年十月十日)にされました。その時、日蓮大聖人様は喜びました。「ああ、これで数数見擯出という予言が当たった」と言われました。島流しに遭うだけでは一度です。さくさく、数々のというのですから、島流しに二度も遭ったのです。日蓮大聖人様は、「上行菩薩というのは、自分とは思っていなかったけれども、末法におけるところの上行菩薩は日蓮であった」ということを佐渡において悟られました。

日蓮大聖人様の教えは佐渡以前と佐渡後では違います。佐前・佐後といいます。これは大事です。それまでは、末法に生まれて(お坊さんのような気持ちで)、釈迦仏法を修行するお坊さんとしての立場から書かれているものもあります。しかし、佐渡島に流されて上行菩薩であるとご自覚されるのです。

日蓮大聖人様が何故、佐渡島に流されたかというと、良観房(*3)の陰口が原因でした。「日蓮は陰謀を企んでいる。そして、この国を破滅させようとしている」と良観は鎌倉幕府に陰口しました。自分が雨乞いの儀式に負けたので日蓮大聖人様を妬んだのです。日蓮大聖人様の「首を斬れ」と指示したのも良観でした。

ところが、鎌倉に日蓮大聖人様が連れていかれて、真夜中の十ニ時になり首を斬られようとすると不思議な光りものが現れ、妖怪まで現れて首を斬ることが出来なかったのです。それを聞いた幕府は恐れおののいて「日蓮の首を斬るのは止めた。その変わり、島流しにしろ」と言って、佐渡島に島流しにしたのです。それも、冬の佐渡島であって大変な島流しでした。海が荒れていて渡れない。その時に日蓮大聖人様が船の舳(へさき)に立って「心配するな。南無妙法蓮華経」と唱えると、波が静かになったといわれています。

そして、厳寒の寒い寒い佐渡島に流されたのです。どんなところに流されたかというと、佐渡の風がふきつける塚原三枚堂といって、死人を捨てる穴があり、そこに壊れたような祠(ほこら)があり、(今でいうとお地蔵さんを祭る祠)そこに日蓮大聖人様は流されました。冬です。しかも、下には人間の死体を沈めるようなところがあり、その上に立っているような祠です。

そのような所に、日蓮大聖人様は流されました。雪がどんどん降ってきて、今よりも冬の佐渡島はずっと寒かったのです。寒くて、日蓮大聖人様はその中で蓑笠を着て、震えながら死をまつばかりです。風は吹きすさんで、その中で日蓮大聖人様は「南無妙法蓮華経」と唱え、「日蓮、現実に極寒地獄を体験する」と言われました。「現実に極寒地獄というものがあるとは聞いてはいたが、それをその時に体得した」というのです。「極寒地獄とはこういうことをいうのだ。」そして、後は死ぬのを待つばかり。

阿仏房(*4)という北面の武士の残党が、日蓮大聖人様より先に佐渡島に流されていました。それが、日蓮大聖人様を斬りに来たのです。「念仏宗の悪口を言う日蓮坊主が流されてきた。よってわしが成敗してくれる」と言って日蓮大聖人様の所へ刀を持って斬りに来たのです。そして、日蓮大聖人様に「お坊は何故、念仏宗の悪口を言うのだ」と聞くのです。阿仏房が日蓮大聖人様にかなうはずありません。日蓮大聖人様に一言、二言でやられてしまったのです。「今、貴方が言ったのは、論か経か釈か。貴方が言った理論は経の理論なのか、論の理論なのか、釈の理論なのですか。」そんなことを阿仏房が答えられるはずがありません。「経典というものは、お釈迦様が説いたとされる経、それを訳した後解説された論、それをさらに講義された釈と三つあります。それを、貴方は何に基づいてそのようなことを言うのか」と日蓮大聖人様に尋ねられて、阿仏房は何も知らないので参ってしまったのです。阿仏房は、「これから私も法華経に帰依します」と言いました。日蓮大聖人様を殺しにきた人間が帰依してしまったのです。

それから、阿仏房は日蓮大聖人様に毎日毎日ご給仕に来たのです。「必ず日蓮大聖人様をお守り申し上げます」と言って毎日ご飯を作ってもってきました。それで、日蓮大聖人様は、殺されることは無かったのです。そして、日蓮大聖人様は鎌倉幕府に宛て予言をします。「私を島流しにしましたね。それはかまいませんが、とんでもないことが起きます。法華経の末法の上行菩薩を島流しにしたことは、同士討ちが始まり、鎌倉幕府は必ず蒙古に攻められることになるでしょう」

それから、鎌倉幕府は二年経ってびっくり仰天する事件が起きました。「日蓮の予言がすべて当たった。日蓮を赦免しろ」鎌倉幕府は、日蓮大聖人様を赦免しました。(一ニ七四年 文永十一年三月ニ十六日)ところが、日蓮大聖人様は佐渡島に流されたときに、ずっと反省されていたのです。反省されて始めて、末法の上行菩薩は自分であったということを悟られました。自分の行事を振り帰って見ると、小松原の法難、竜ノ口の法難、伊東の流罪、佐渡島の流罪、様々な難を数えるとまさにこれは経典の通りであると悟られたのです。「私以外にこれだけの難に遭った人はいるだろうか」ということを自分自身に問い掛けました。まだ、ご自分としても皆に向かって「私は上行菩薩です」と言っていません。そのようなことは言いませんが、自分で問いかけています。「上行菩薩とは誰なのだろうか」「上行菩薩は出て来るといっているけれども、まさに上行菩薩というものは出現したのかしないのか」これはわかる人に、わかるように言ったのです。日蓮大聖人様は一度たりともご自分が上行菩薩とは言っていません。「上行菩薩出現せずとやせん」

他の日蓮宗は、日蓮大聖人様ご自身がはっきりと言っていないのでわかりません。「上行菩薩、上行菩薩、釈迦仏法を修行する上行菩薩」というように思っています。実は全くご内心においては違うのであって、このお釈迦様の仏法が終わった末法万年の他、尽未来際までも流れる法を建立されたのは日蓮であるというご内心です。

従って末法の日蓮大聖人様は教主です。これがわからないと日蓮大聖人様が分かりません。そこで諌暁八幡抄でも、月氏の仏法は、「月は光あきらかならず、在世は但八年なり」と言っています。月の光りが日本に来て末法になったのだ。夜が明けてこの日本の国から太陽が昇る如く、仏法が昇って全世界を照らしていくのです。これが諌暁八幡抄のご決意です。日蓮大聖人様とはそのような方だと、まず頭に置かないといけません。

今日はその続きを講義します。
「問うて云く如説修行の行者は現世安穏なるべし何が故ぞ三類の強敵盛んならんや」
法華経の修行をすると、日蓮大聖人様もそうですが難に遭うのです。法華経の経典を読むと「現世安穏後生善処」と書いてあります。法華経を修行する者は、この世で安穏を得て死んだ先も幸せになります。現世安穏、後生、「生まれてくる先によくなりますよ」と書いてあるではないですか。それが、どうして現世安穏ではなくて、この法華経を修行すると、三類の強敵が出て来るのでしょうか。

このように、皆に教える為に自分で自問をしているのです。この三類の強敵というのは、この間も勉強したように道門増上慢・僣聖増上慢・俗衆増上慢です。この法華経という、非常に高度な最高の仏法というものを皆わからないのです。これは評論家であろうが、竹村健一であろうが、大前研一であろうが、仏法の極意というものは分かるものではありません。仏法の極意とは悟りです。彼らは分からないにもかかわらず、「何が南無妙法蓮華経なんだよ。そんなものは前世の遺物だよ」と批判するのです。これを僣聖増上慢といいます。勉強したと称する人、世間から崇められている人間が、南無妙法蓮華経という信心を邪魔するのです。

それから道門増上慢というのは、仏法を修行する人間、あるいはヨガなどをやっている人間、偉そうな格好をしている人間が「法華経? 南無妙法蓮華経? 冗談じゃないよ。仏法は座禅だよ。仏法はチャクラの行法を修行することだよ。」と惑わすことを言います。そうすると、惑わされてしまうのです。これはお坊さんや、偉そうな格好をしているので、そちらのほうがいいと思って行ってしまうのです。これは道門増上慢です。

それから、三番目の三類の強敵は俗衆増上慢です。俗衆増上慢というのは全くわけもわからず、偉くもなければ、仏法も勉強していない、無知蒙昧なる衆生が信心の邪魔をする。この三類の敵人は、我々の未来については、方程式ですから必ずついてまわります。今でいうと、マスコミ、既存の権威、親、会社の社長です。それに三類の強敵が入り込み、「君ね、変な信仰しているのなら辞めてもらうよ」こう言うのです。平和神軍もそうです。「平和神軍は信仰している団体だから行かないんだよ」俗衆増上慢です。「なんで念仏で悪いんだよ」これも俗衆増上慢です。それから、マスコミは絶対に取り上げません。これは僣聖増上慢です。「俺達は一番偉い」と思っているのです。「平和神軍は偉くない」という角度から取り上げないのです。

信仰には、道門増上慢・僣聖増上慢・俗衆増上慢は常についてまわるということを頭においてください。では、どうしてそうなるのでしょうか。

「答えて云く釈尊は法華経の御為に今度・九横の大難に値ひ給ふ、過去の不軽菩薩は法華経の故に杖木瓦石(じょうもくがしゃく)を蒙り・竺の道生は蘇山に流され法道三蔵は面(かお)に火印をあてられ師子尊者は頭をはねられ天台大師は南三・北七にあだまれ伝教大師は六宗ににくまれ給へり」

これも正法時代、像法時代の昔の話しですが、この法華経を信じた人間はこうなったのです。法華経を説く為にお生まれになったお釈迦様は、九横の大難に遭いました。横(おう)というのは横死とか色々な意味がありますが、横死の横(おう)です。それだけ様々な横車の難に遭うのです。お釈迦様のご一生というのは九横の大難と言われています。九つの大きな難が有りました。それは提婆達多によるものです。象に酒を飲ませて、お釈迦様を殺そうとしたり、崖から石を突き落としたりしたのです。そのような大きな妨害が九つもあったのです。聖者のお釈迦様を迫害しようとした提婆達多という者も、ピタッとお釈迦様についていたのです。

また、「過去の不軽菩薩は法華経の故に杖木瓦石を蒙り」、過去に不軽菩薩という菩薩がいました。この不軽菩薩の修行は変わっていて、皆を拝んだのです。人を見るといきなり来て手を合わせて拝み、ヤクザが歩いていると、その前に行って手を合わせて拝み、水商売の女の人でも見ると前に行って手を合わせて拝んだのです。皆、怒りました。「お前は俺を馬鹿にしているのか。俺はお前から拝まれるような人間ではない。俺はホームレスだよ」「私は水商売よ」「俺はヤクザなんだ。何でお前は俺を拝むんだよ。馬鹿にしているのか、この野郎!」と言って、石を投げられたり、ぶたれたりしたのです。

不軽菩薩はぶたれても、逃げながら手を合わせて拝んだのです。この不軽菩薩という人はあらゆる人を崇めました。これは何を物語っているのかというと、「貴方がたは今悪事を成しているけれども、やがて地獄に行って、そしていつかは必ず仏になる人です。人間のみならず、すべてのものはそうです。今の貴方を拝むのではない。貴方の中に入っている未来に仏となる仏性というものを拝むのだ。」こういう理屈で拝んでまわったのです。「バカヤロウ!何が仏性だ!ふざけるんじゃないよ!」という理由で、不軽菩薩は殴られ、石を投げられ、杖でぶたれたのです。

竺の道生という人は「法華経最第一」と言ったので島流しにされて、法道三蔵という人は顔に「悪」という焼印を押されました。または師子尊者という人は、法華経を最第一と言ったおかげで「生意気言うな」とつれてこられて首を刎ねられてしまったのです。これは、お釈迦様の過去世の二千年の時の話しです。

あるいは天台大師(*5)。天台大師は偉い方です。摩訶止観(まかしかん)を読んだらわかりますが凄い人です。一念三千という法門を立て、南三・北七の人々に怨まれたのです。「天台は妙なことを言っている。法華経第一と言っている。とんでもない奴だ。あいつが来たら口をきかないようにしよう」皆、そう言いました。お釈迦様もそうです。お釈迦様と一緒に修行した仲間たちが、釈尊が悟った瞬間に「釈迦が来たら口をきかないようにしよう」と言いました。天台大師もそうです。「天台が来たら口をきかないようにしよう」今でいうと、学会に入れないということです。歴史学会だとか科学者の会が有りますが、そういうところに入れないのです。「あいつは法華経だからやめよう」仲間はずれということです。そういうことをやったのです。

そして、日本の伝教大師は南都六宗、奈良の旧仏教の東大寺、法隆寺に徹底的に苛められました。その故は、伝教大師という方は法華経最第一と言ったのです。釈尊の仏教というものは法華経です。お釈迦様がお説きになりたかったのは、この法華経です。「この法華経こそが、仏法というものであって、東大寺、大仏、色々なところで奈良仏教をやっていますが、それは本当の仏教ではない」と言ったのです。「私は天台大師のところに行って習ってきました。本当の仏教とは法華経です」と言ったので憎まれたのです。徹底的に憎まれました。

「此等の仏菩薩・大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり、此れ等の人人を如説修行の人と云わずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん」
これらの人というのは皆、立派な大学者であり、凄い人です。この人達が如説修行の人であり、難を恐れません。信仰の極意とは難を恐れないこと。現世安穏と書かれているけれども、難を恐れないのです。その難を乗り越えていくところに信仰はあります。

日蓮大聖人様は様々な難に遭ったけれども晩年はどうであったかというと、五十ニ歳の時に、山に入られて身延に草庵を建てられました。(一ニ七四年 文永十一年五月)身延に行くとわかりますが、川が流れて、森閑として、静かでとても素晴らしい所です。そこに最後は伽藍(がらん)を建てられました。百人の弟子と共に生活をし、やがて来るべき末法の為に経典を整理されて法華経の講義をされたのです。その講義が、現在残っている御義口伝です。また、注法華経というのもあります。法華経はこう読むのだと書かれたものもあります。弟子が皆書いたのです。

そのような所願満足の生活を送られていました。日蓮大聖人様の最後の八年間というのは、全く静かなご境涯でした。不思議です。それまでは、島流し、首の座など様々な法難に遭うのですが、全く法難が無なくなるのです。法華経を信じる者は色々な難がありますが、最後は必ず幸せになります。途中で皆、疑いを起こして法華経を捨ててしまうのです。「こんなにやっているのにな」本当は何もやってはいません。最後まで行くという信心がないだけです。これは信仰の非常に大事な点です。

「然るに今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上悪国悪王悪臣悪民のみ有りて正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば国土に悪鬼乱れ入りて三災・七難盛に起れり」

然るにこの末法というのは、この間も言いましたが、闘諍堅固・白法隠没です。お釈迦様の法がきれた末法に生まれてくる我々は、争いが好きで、喧嘩ばかりして、人よりも自分が優れていると思い、「コノヤロウ!」「ヤリヤガッタナ!」と殴り合いをしてどうにもならない人間です。そして、お釈迦様の白法たる法力が隠没し、無くなっています。この法が無くなっているときに、新しく出て来る仏様を信じて、立って行く人に難が襲わないわけはありません。お釈迦様の法というのは弱い法です。白法(白い法)です。日蓮大聖人様の仏法は大白法です。白法と大白法は違います。大白法は光り輝いています。大白法を太陽とすれば、お釈迦様の仏法は月。この月の弱い仏法を保った人間でも正しい法を保った人は、首まで刎ねられる難に遭っています。大白法をこれから保っていく人に、難が来ないわけありません。

その難を避けた生き方が創価学会です。時流に委ねていくのですから、彼等にはもう難は来ません。時流に委ねて時流に漂っているのです。流転していくのです。そうなるともう難は来ません。正しいことを「正しい」と言ってつっぱれば、三類の敵陣が来るのに決まっています。それを辞めて「君の考えも正しい」などと言っていると難は来ません。末法においては日蓮大聖人様は教祖です。日本国中、日蓮大聖人様を信じなければいけません。「何故、貴方は念仏をやっているのだ」と言った瞬間に憎まれます。それは当たり前。「何故、貴方はヨガなどやっているのか。仏法でもなければなんでもないでしょう」と言った瞬間に憎まれます。「貴方、キリスト教などやめなさい」と言った瞬間に憎まれるのです。「あの人と口をきかないようにしよう」あるいは「カルトだ」「キチガイだ」と何でも言われます。本当に信仰していくということはそういうことです。皆とは仲良くできないのです。できるわけがありません。こちらが皆を変えていこうとしているのです。皆の言うことを聞く事は、自分がその中に入りこんでいくだけです。我々は正しい法をもって末法万年を目指して進んで行くのです。

末法万年は誰が教祖か。誰の教えを聞けばいいのか。誰の教えを聞くことが一番正しいのかということを皆に教えていくのです。皆、それぞれの信念をもって生きています。「あの野郎、生意気だ」「あの野郎、殺してやる」と言われるかもわかりません。それは、様々なことを言われます。日蓮大聖人様の信仰の原点は、その決意が出来ていないとすぐに退転してしまいます。「どんなことがあっても日蓮大聖人様を信じていくぞ」と信心していくのです。

一般世間の人が分からない事を教えていくのですから、難があって当たり前。恐れることはありません。それが修行、如説修行抄です。それ以外に修行などありません。座禅を組んでも、断食しても、何をやっても末法の修行ではありません。末法にいる人は悪人です。それに向かって「いいですか。末法万年は日蓮大聖人様を信じていくのです。」と折伏するのです。そうすれば、イスラム教の殺し合いだとか、原爆を使うとか、殺し合いの理論はありえません。そのような、教えがいかに力がないかということを反対に末法で証明しています。

キリスト教、イスラム教、オウムの麻原も人殺し宗教です。人の不幸も考えないで皆殺し、考え方が狂っています。狂っている人間を直して行くことが仏弟子の役割です。勇気の無い人間は日蓮大聖人様の弟子になれません。また、本当に信じれば勇気が出ます。それを自分に問いかけるのです。「日蓮大聖人様を信じます」その瞬間から、その人は日蓮大聖人様の門下生です。それができないで、だらだらやっていては何もできません。革命していく。それが一番の仏道修行です。辛いこともあるかもしれませんが、その結果として最後になりますが、現世安穏後生善処となります。その結果として最後を見てみなさい。この法力が偉大なるが故に誰も敵わなくなります。

折伏するということは、相手が信仰するかしないかの勝負です。念仏を唱える人、真言宗の人がいて、折伏するということは勝負することです。「貴方は南無阿弥陀仏の哲学をもって人生を渡るのですね」「よし、わかりました。私と勝負です」その気構えは「私は日蓮大聖人様を信じてついていきます」ということです。「貴方は信じないのですね。では、勝負だ」となるのです。「信じません」と言ったならば、ほっておけばいいのです。仏罰を受けてしまいます。仏罰は日蓮大聖人様が当てるのではありません。間違った教えを保っていれば必ず人生は行き詰まってしまいます。

我々は違います。正しい法を保っているが故に妬まれて、「猶多怨嫉」されるのです。人に妬まれて、様々な難があると日蓮大聖人様は言っています。この御書には書いてありませんが、「彼等がほえるは野干のほうるなり」「日蓮がほえるは獅子の一門なり」という御書があります。日蓮大聖人様の仏法を信じたということはライオンです。誰にも負けません。「キリスト教、真言宗、念仏、何を言っているのだ」信じた瞬間に、法力(強い力)が備わります。それはちょうどライオンが「ウォー」と吼えるようなもの。皆、ライオンが来るから逃げます。逃げるのを捕まえて「南無妙法蓮華教を信仰しなさい」と折伏するのです。折伏すると皆逃げます。「ああ、そうですか。仏法を教えてください」というような綺麗な心をもった人間は末法にはいません。「南無妙法蓮華経」と言った瞬間に蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいます。逃げて遠くのほうから、「バカヤロウ!」と叫び、全く見えないところから「バカヤロウ!」と撃ってくるのです。見えないところから撃ってくるだけであってそんなものは痛くもかゆくもありません。それも現証ですべて最後勝負がついてしまいます。

折伏とは、信じない人間と、自分との人生の勝負。これが折伏。これを教えていくのです。「貴方は退転しましたね。わかりました。人生成功できるならやってみなさい」やれるはずはありません。その信心が自分に本当にあれば、確信がもてます。最高の人生の法を保って負けるわけがありません。頭の狂ったキリスト教、真言密教などに負けるわけがありません。それだけ有り難い法を保っていれば、三類の強敵は消えてしまいます。折伏すると、悪口はでて来ます。何も恐いことはありません。教えていく立場です。

しかも、相手は逃げるのです。「教えてくれなくていい」と言って逃げたら、こちらから追いかけていくのです。「待て。貴方はそれでいいのですか」と、折伏をするから憎まれます。逃げていく人をほおっておけばいいのですが、「逃がさないぞ。貴方を真人間にします」と言うのですから。すると「よけいなお世話だよ」という答えが返ってきます。「そうか、貴方はそう言うのですね。それでは地獄へ行ってらっしゃい」と相手を折伏するのです。これが日蓮大聖人様の信仰です。

「然るに今の世は闘諍堅固」争いばかりで「白法隠没なる上」「悪国」です。今は悪国。世界のどこをみても人殺しです。「悪王」がいます。したがって臣下も「悪臣」。日本国の首相は皆、この通りです。しかも、民主主義ですから民衆も馬鹿で愚かで何が正義かわかりません。人間は何が正義かわかった段階が一番強いのです。何が正義かわからない人間は一番最低です。末法において何が正義か教えていく事が、日蓮大聖人様の弟子の使命です。

皆、正義が無く、正義がわからないのです。「何が正しいのかな。何がなんだかわからんよ」と、皆そうなってしまったのです。「見れば見るほど変な奴ばかりで何もわからんよ。だから俺は何も信じないようにしよう」その結果、「結局、俺は俺だ。俺を信じればいいんだよ」となるのです。「俺」などという最も邪教なるものを信じこんでしまうのです。そして、「俺は俺の人生だよ」と始まります。人々が信じなければならないものはあるのです。正義です。何が正義かという、日本国の正義が無いのです。男の正義も無く、女の正義も無く、正義が無くなってしまったのです。無くなってしまったから、我々がそのことを教えていかなければなりません。

正義とは何か。日蓮大聖人様の仏法を信じることが正義。
国の正義とは何か。日蓮大聖人様の仏法による考え方で日本の国を幸せにしていくこと。
世界の正義とは何か。この日本国に見習ってくだらない争いを止めること。


人殺しばかりしていないで、皆仲良く、家族のように助け合いながら、生きていくということが正義。それを妨げるのが、キリスト教、イスラム教の邪教です。それを正していくということが正義。正義を失った瞬間に、その人間も崩壊し、家庭も崩壊し、国も崩壊します。今、大事なことは正義とは何かということを打ち立てていくこと。知らないから教えていくのです。当然、悪口を言われます。勇気の無い人は出来ません。

「正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば国土に悪鬼乱れ入りて三災・七難盛に起れり」
我が国の国の正義とは天皇です。衆生は国の根本もわからず、天皇陛下のこともわからず、乱れに乱れて何がなんだかわからない。そうすると、そこに「三災・七難」が起きて来ます。もうすでに、日本に起きています。「三災・七難」飢饉・疫病。食べ物が無くなり、国土が乱れ、地震が来る、戦乱が起きてくる、疫病が流行る。牛すら食べられなくなるような、馬鹿で愚かなことがもう起きています。事実です。「邪法・邪師」に皆がつけば心が乱れる。国民の心が乱れれば、そこにスキをついて「悪鬼」、人々を不幸にするものが一気に襲ってきます。これは必然的なことです。

「かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ、法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実ニ教のいくさを起し忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて大白牛車に打乗って権門をかつぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或いはにげ或はひきしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる、或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし」

日蓮大聖人様がこの世に生まれて、一応これはお釈迦様の法華経と建てていますが、本当はご自分のことです。日蓮大聖人様は「法王」と言っています。「法王」とは教主の事です。「法王は一人なり」ご自分のことを、このようにおっしゃっているのです。釈迦仏法の法華経「一部八巻」というと、お釈迦様の仏法の旗を持って「邪教を皆やっつけろ」と見えるけれどもそうではありません。ご自分が教主。末法を万年救う教主であるから、法王一人。当然です。それで逃げる者をおいかけて折伏するのです。しかも、それは「軍」(いくさ)をやっているのです。邪教との戦いは「軍」です。

「法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌を砕かず、代は義農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。」

「法華折伏」・南無妙法蓮華経は折伏の宗旨です。折伏というのは教団の勢力を強める為に「数を多くせよ」ということではありません。間違ったものを正していく事を折伏といいます。「貴方の宗教は間違っている」「どこが間違っているのですか」「ここが間違っている」それを創価学会のように折伏しないで騙して数だけ入れていけばいいという考えではいけません。相手の宗教観の間違い、すべての宗教観の間違いから人生の狂いが始まるということを教えてあげなければいけません。

例えば、禅宗をやっている人は天魔の業。従って頭の病気になります。真言宗は亡国。従って真言宗の家に生まれた長男は育っていません。廃嫡(はいちゃく)といいます。役に立たないのです。具体的に真言宗の家に生まれると大抵の人が詐欺師で、ウソつきで、長男が育ちません。これは、真言宗という教えの害毒がその人に出てきて、自分は信じていないけれども、親が信じていると影響力が出てきてそういう人間になるのです。 

念仏は無間地獄の業。何故ならば、念仏は現世を否定します。現世を否定するということは諦めの思想であって、「何でもいいや。なんとか生きていければいいんだよ。どうせ死んだら南無阿弥陀仏で救われるんだから。いいんだよ。いいんだよ」という考え方になってしまいます。念仏は無気力になります。念仏は、無間地獄の業であると教えていかなければなりません。律宗は国賊。ニ百五十戒も、六百戒も戒律だけ守って、戒律、戒律、戒律だけ守っていて、そんなことでは国は救えません。律宗など信じている者は馬鹿で頭が狂っています。
「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」

そして、キリスト教徒はニ重人格です。裏には燃えあがるような性欲が有るのですが、「性欲はありません」とウソばかりついています。昔「アリサとロジェム」というニ重人格性を書いた小説がありました。キリスト教徒は本当にニ重人格です。そのように、すべての人々の宗教だけではありません。共産主義もそうです。唯物弁証法の考え方は人々を幸せにするでしょうか。その考え方はどれだけ多くの人間を殺したか。北朝鮮は未だに収容所列島になっていて、スターリンは一億人殺し、毛沢東は三千万人も自国民を殺して、これは思想の間違いからくるのです。

また、アフガニスタンのイスラム教のイスラム原理主義に帰るならば、あのような人殺しが平気でできます。それを迎え撃つキリスト軍もキリスト教の教義に法って邪教を殲滅して皆殺しにするということができます。すべて、その人が保っている根元の宗教観、そのことから起きてくることです。すべての人の宗教観を正しくしていくことが日蓮大聖人様の弟子です。その宗教観を正しくして、日本も正しくしていくことが、日蓮大聖人様の考え方であります。それを抜きにして、政治的に解決したところで、人間自体がいい加減なのですから、どんな制度を作っても良くは成りません。

もし、人間が立派ならば共産主義でもいい。すべての人が立派だったら造った建物を皆で平等に分けて、苦しい時は助け合い、国は計画をして、とても素晴らしい国ができます。共産主義だから政治的に悪いのではない。資本主義だから悪いのではない。人間さえよければどうにでもなるのです。事実、大実業家になってあちらこちらに寄付をした人はたくさんいます。問題は人間。あくなき利益を追求する。相手が死ぬまで血をむさぼり食う。考えが間違っています。その考え方を正していくということは人に馬鹿にされようが、日蓮門下生としての立場です。私はこのことを一貫として崩していません。

そのようなことを成していく人は、どのような人かというと日蓮大聖人様の弟子である我々です。日蓮大聖人様は無位無冠。大僧正の位があるわけでもなく、位の無い者がやっていくのです。もし、私が有名人ならば、もっともっと色々な人が話しを聞きにきます。無名であるが故にどんな良い話しをしても誰も信用しません。それに負けてはいけません。末法に無位無冠のままで仏法を広めていくのが地涌の菩薩の姿です。皆凡夫。みすぼらしい人間が法を広めていくに従ってだんだん立派になってきます。法力によって立派になるのです。「今に見ていろ。俺がどれだけ偉くなるか」と思っていればいいのです。偉大な法を保った人は必ず立派になります。

「自分は何の法を保っているのか」自分の保っている法を反省しなさい。「貴方は何の法を保っているのか」それを反省しないで無批判に受けとっている考え方を揺さぶってあげるということが大切です。折伏とはそういうことです。「法華折伏・破権門理」です。権というのは仮の教えです。様々な仮の教えがあります。念仏などは仮の教えです。仮の教えを破ってその中に潜んでいる真理を明かにしていくことを「破権門理」といいます。相手の教えを破って真実の姿を教えていくということが法華経の役割です。

「法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし」
法王とは日蓮大聖人様のことです。日蓮大聖人様の弟子にして、「天下万民・諸乗一仏乗」と、日蓮大聖人様を信じて、「仏法は南無妙法蓮華経だ」という世の中が来た時、「妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず」台風も来なくなり、「雨壌を砕かず」雨が降っても洪水は無くなるのです。「代は義農の世となりて」平和の世となって、「今生には不祥の災難」そこに住んでいる人間は災難は無くなるのです。

そして、皆長生きして「長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ」今に見てみなさい。その時が来るのです。永遠の生命のことをいっています。それを「現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」と言います。我々が広めていくと末法万年ですから、苦労すればするほど有り難いことであり、やがてそういう世の中が来ます。それまでやるのが日蓮大聖人様の弟子です。それを如説修行という。日蓮大聖人様の弟子になり、臆病な気持ちを捨てなければなりません。「ただ今から、日蓮大聖人様を信じます。私に如何なる難が起ころうとも私は日蓮大聖人様を疑うことを致しません。」この決意をした時に信心決定(けつじょう)というのです。決定しなければ、何年信心しているといっても、本当の信仰ではありません。法力は流れてきません。

皆さんも、仏法の話しを教わっているときは仏と対座していると思ってください。私が石田先生の所に通っていたころは三時間でも正座を崩しません。仏法の話しを教わるということは、永遠の幸せを得ることですから、あぐらなどかいてはいけません。ピシッと座ったままです。石田先生に「正座をくずしなさい」と言われても正座はくずしません。「お茶をどうぞ」と言われるまで飲んだことはありません。それくらいのことは五年間はやってきたのです。当たり前のことです。日蓮大聖人様の仏法を教えてくれる人は仏です。仏法の話しを教えてもらう人は、仏を迎えるようにするのです。また、白木君が法を説けば仏法を聞く人は白木君を仏のように思うのです。そういことを教えていかなければなりません。

人生の長い間において正しい法に巡り会うということは、真にめずらしいことです。今、地球上に六十ニ億の人間がいても、皆邪教です。今、私から正しい法を教わるということは本当に極一握りの人間です。その身の福運をわからなければなりません。正しいという教えを教わることは人生において有り得ません。そういう福運があるからここにいるのです。本当に信仰している人は「ああ、そうだな」と喜びがこみ上げてきます。仏法の真実を教わるなど人生において無いのです。皆いい加減なのです。

生命というのは、三世にわたるものが真実。仏様は全部そう見ています。ですから仏といいます。この世のことだけしかわからないのを凡夫といいます。仏様は、三世(過去・現在・未来)にわたる生命を悟っていらっしゃるのです。その法則が教えられているから仏といい、過去・現在・未来にわたって教えられるのは仏様しかいないのです。

生命とは永遠の存在。我々はこの世に生まれてこの世で死んでしまうと思っています。それが邪教。正しいものの見方をした人のみ生命は永遠だとわかります。そのことを教えているのが妙法蓮華経です。それを、もっと具体的にされたのが南無妙法蓮華経です。信じようと、信じなかろうと生命は永遠。永遠とはカルマが永遠なのです。霊魂ではない。

例えば、「私」と今、貴方が感じています。貴方という体を自分と思っています。何故、貴方だと思っているのでしょう。明日、起きたら違うものになればいいではないですか。なれません。今日も「私」、明日も「私」、明後日も「私」です。毎日、自分です。起きても寝ても「私」で、一歩も逃げられないのです。「何故なんだ。何故私にとってこの体、この環境」これが、「私」です。「これは、俺の願ったことではないのだ。しかし、俺はずっと俺を続けていかなければならない」それから見ていけばわかります。「何故なんだ」「私」と感じ続ける実存が永遠だといっているのです。「私」の肉体など永遠のはずはありません。五歳の時の「私」と今の「私」では細胞は全部入れ替わっています。肉体は毎日新陳代謝をして変わっています。肉体が永遠のはずはありません。

しかし、貴方が感じ続ける私というのは、寝ても「私」、起きても「私」ということです。感じ続けるものを仏法では我(が)といいます。我の常住とはそういうことです。これが、感じ続けていく実存ですから、霊魂みたいなものがあり生まれ変わっているのではありません。ともかく、自分を感じ続けている。これが死んでしまうと何も感じないように思いますが、ちゃんとどこかで何かを感じとっています。ですから恐ろしい。このことを「実果を得る」といいます。

例えば、瓦礫の下で死んだ人はどのような苦しい死に方をしたでしょう。壁が崩れてきて真っ暗になって、瓦礫の下敷きになって死んでいくのはとても苦しいことです。海の水を飲んで、死にそこなう事もとても苦しい事です。「苦しい」という心が、我々の場合はすぐ次に変わります。その「苦しい」で止まってしまう人がいるのです。「実果を得る」というのです。

その為に、十界論を説いているのです。人間が生きている間、十界は動けます。例えば、今ご飯が食べたいと思ったら餓鬼界。「おなかがすいたな」おなかがすいたと感じるのです。ご飯を食べると満足するのです。「おなかがすいたな」と思う心は餓鬼界。この餓鬼界はご飯を食べているときは生きています。食べ終わると餓鬼界が死にます。

今度は、「満腹だ」と天界の気持ちが生きてきます。そのように、人間の生命状態をよく見ていくと、心というものは十界しか生きていません。生命とは十界の生死。朝起きて「体がだるいな。苦しいな。今日も仕事か。やだな」これは、行きたくないのですから地獄界。「腹すいたな」とご飯を食べて、バイクに乗れば、隣からきた車に「おい、こらどけ!」と言われて「なんだこの野郎!」と反応すれば畜生界。修羅界・畜生界です。相手が「すみません」などと謝ってきたら「きおつけろ!」と天界です。先ほどの修羅界の気持ちが全部消えています。

私たちの命は瞬間、瞬間の縁に触れて出て来るのは十界だけ。仏様の見た宇宙の実存とは十界です。人間が生死をやっているけれども、実はよくつきつめると十界の生死しかない。十界というのは永遠の実存。無くならない。我々は必ず十界の何処かにいます。

今、私はこのように仏法の話しをして菩薩界が生きています。もう少したっておなかが空いてくると餓鬼界。すると菩薩界は死んでしまいます。餓鬼界が生きてきます。テレビを見て「おもしろいな。わははは」となれば天界。さっきまで一生懸命仏法を説いていた菩薩界は死んでしまうのです。そのように、自分の生命を見ると地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界の十のカテゴリー(範疇)でしか自分を感じていないのです。犬も猫も誰でもそうです。

心というものは感ずるもの。物理の法則ではない。感ずる心というものは宇宙にはこれしかない。それをお釈迦様が悟ったのです。それを体系化したのが天台大師の一念三千論です。大宇宙どこまでいっても十界。この十界とは誰が作ったものでもなく、有るのです。真実に存在するものは十界の法だけだと見たのが仏です。

ですから、人間が死んでも十界の法から逃れることはできません。必ず何かを感じ取る。「もう俺は終わってしまったんだ」と死んでも何かを感じとる。何かを感じるのも今の続きです。今までの人間が自分で、死んだ瞬間に全然違うものに成るということは有り得ません。人生の傾向性がずっと苦しかったら死んだところでまた苦しい何かを感じています。病気の人間が「苦しい、苦しい」と死んでしまったら病気が無くなるわけではなく、また、何か苦しむのです。

それがどういう形になって何をしているかということは、明確には仏しかわかりません。我々は教われば分かります。それが、仏法。貴方が未来に何に成るか、今やっていることを見ればわかります。過去に何をやってきたかということは、今を見ればわかります。「現在の果を知らんと欲すれば、過去の因を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」因果倶時ですからわかるのです。

例えば、猫ばかり殺していればどうなるでしょう。現実にそんな人間がいましたが、自分が猫を修羅界に追いこんで殺したり、苦しい目に遭わせたりすると、苦しい目に遭わせた時に、(その人の命の裏表であって)自分がそれを吸い込んでしまうのです。

オサマ・ビン・ラディンなどは大変です。一万人の人間を苦しめたという因果の報いを負ってしまったのです。それを信じないからあのような残酷なテロができるのです。信じようが、信じなかろうが、因果倶時です。原因と結果が同時。人に向かって殺しをしたということは、殺しは果ですが、実は殺しの因を自分に植えたのです。因果倶時です。必ず自分がやったことは自分に帰ってきます。これが仏の見た法則性です。

もし、否定するならば、やってみてください。片っ端から殺しをやっていけば、その結果全部自分に帰ってきます。恐ろしいことです。それが蓮華の法です。人にやっていること、他人にやっていること、或いは動物にやっていること、それは自分にやっていることなのです。

人間には自他彼此(じたひし)の心がありますが、「これは他人」「これは自分」と、真理が分からない人間は別けて考えて「人にやったことは関係ない」と考えますが、実はそれは自分にやっていることです。行為というものは必ず発動します。

その殺の報いは貧乏。殺戮を好むものは短命。全部決まっています。若死にした人の宿命を見ると、必ず動物を殺すのが好きな人です。今世ではやっていなくても過去にやっているのです。殺の報いは短命と生まれます。人殺しの報いは貧乏で生まれます。人殺しを前世でやってきて、今世で生まれて、いくら働いても金持ちにはなれません。これは殺の報いがあるからです。「過去のことは俺知らないよ」と言っても、知らないから、人生が見えないから凡夫というのです。仏のほうから見てみればすべてお見通し。「やめなさい。原爆を落とせば、貴方が原爆を落とされるのです。ニ十万人殺したならば、貴方がニ十万人分の地獄を経験するのです」皆、最後になんとなく気がつくのです。自分の成したカルマは必ず自分に帰ってきます。

人殺しをするということは、法律が有ろうが無かろうがやってはいけないのです。他人を苦しめたことは全部自分に帰ってきます。事実です。これを仏様が見ています。「因果倶時不思議の一法これあり、これを名づけて蓮華となす」と日蓮大聖人様は言っています。皆は、蓮華の法のことを知りません。「人と自分は違う」というのです。蓮華の法を悟ったら仏様です。 

出て来る命のことを妙法。我々が感じる心のことを妙法というのです。妙法とは心のことです。妙法はどうして出て来るのでしょうか。貴方の幸せな心は蓮華の法です。反対に、「私の不幸はどこから出て来るのでしょう」蓮華の法です。球根があって、球根からは綺麗な花が咲きますが、球根の下に悪いものがいっぱいつまっていたらそこに綺麗な花は咲きません。妙法とは咲いた花です。

生まれながらにして日本国皇太子に生まれる人もいます。その心は妙法。「私は日本国である。」如何して日本国になったのかというと因果の法だからです。反対に、生まれながら親にぶん殴られてどつかれて育った人もいます。これも因果の法。仏法とはつきつめると三世の法です。三世の法を解明されたのが仏様です。三世の法則のことを妙法蓮華といいます。妙法とはそこに咲いた花。妙は死、法は生、生死の二法は一身の妙用。妙法とは一つの心のことをいっています。

妙法のことを天台大師は一念三千と精妙に論証されたのです。十界論を更に百界論にして、それに十如是と加えられて、一瞬の間に三千の命が備わっています。「これが生命の実相だ」と言われたのが天台大師の一念三千です。誰もこのことが分かりません。何故、私がそのことが分かるかというと、天台大師は理の一念三千といって理屈から入った人であり、南無妙法蓮華経は事の一念三千で理屈ではありません。日蓮大聖人様の仏法を信じてくると、天台大師も他の仏様の教えも悟ってしまいます。法力が違うのです。上のものは、下のものが全部わかります。天台大師を学んで仏教を探ろうとしても分かりません。南無妙法蓮華経を信ずれば、あらゆる思想全て悟ってしまうのです。「なんだこんなことか」と悟ってしまいます。南無妙法蓮華経を信じたほうが得です。お釈迦様の仏法も全て悟ってしまいます。それが仏様になるということです。

悪世末法、白法隠没、闘諍堅固の中に出て来る菩薩は位が高く、その位が高い人間が凡夫です。凡夫で、無位無冠。そして、皆に馬鹿にされます。本当は違います。来世はそれが花開くのです。僕は来世生まれるとき、絶対に大王に生まれます。自分で分かります。今度は貧乏人には生まれません。使命を果たしてきたからです。願兼於業(がんけんおごう)といいます。法を広めたご褒美を頂けるのです。すると、どこかの大王に生まれるのです。一休みをして、「ああ、もうあきた。刺激がないからもういい。また末法に、貧乏に生まれて暴れてきます。行ってきます」このような感じです。

戸田城聖先生は死ぬ時になんといったでしょう。「ああ、もう地球はもういいよ。地球はやったから、後はよその星に生まれるよ」そのような境涯です。宇宙何処に生まれるか分かりません。天体は地球だけではありません。恐竜がいる所もあります。そこに生まれてしまう場合もあるのです。「般若心経の大予言」を読んでみてください。水にも漂わず、石で焼こうが、刀で斬ろうとも、どうしても消すことが出来ない、それが命です。自殺しても消えません。何をやっても消えないのです。

アートマンとは塊みたいなものではなく、思いのことです。実存の法。実存とは自分が思うことを実存。実在とは自分の思いに関係なく外にあるものを実在といいます。更に哲学的に言うと実在は存在しません。実在のことをカント(一七ニ四年〜一八○四年)は独立外界といったのです。「自分という心がなくて独立した世界があるだろうか」それは無いということを、ヘーゲル(一七七○年〜一八三一年)が証明したのです。独立外界といいます。実在とは本当は有りません。世界に有るのは実存のみ。これを近代の原子物理学が証明しました。「有ると思えば有る。無いと思えば無い」物質の根元は、そうなってしまうのです。

人間が塊を見て、富士山という実在があるとか、原子という実在があると思っているだけです。それを更に見ていくと何処にも実在など有りません。しかも最後に出て来るのが心です。自分が見ている時には素粒子はそこに有ります。後を向いた時には素粒子はそこには無いのです。人間の心と、物質の根元は非常に深い係わり合いをもっています。カプラーや、物理学者達は、最後に東洋の哲学に到達したのです。心を離れた実在は無いのです。物理学が東洋の哲学に追いついてきました。仏法と物理学は違います。物理学は実在を追い求めたものです。

ギリシャ以来、「実在とは何か」「万物は流転する」とエンペドクレス(前四九○年頃〜四三○年頃)は言いました。「万物は流転する」それでは、全部流転してしまうのでしょうか。何か流転しないものが有るはずです。

それがアトム(原子)論です。「いや、水に違いない。水が万物の根元だ」とタレス(前六ニ四年頃〜五四六年頃)は言いました。「いや、空気に違いない」とアナクシメネス(前五六○年〜五○○年頃)は言いました。「いや、土だ」とクセノファネス(前五七○年頃〜四八○年頃)は言いました。中国の五行説とは違いますが、実在だと思うアトムという考え方が現代の物理学に引き継がれています。科学は実在を探す戦い。

実在はわかりました。実在は原子です。原子は現在百六個くらいありますが、原子が実在だと思った瞬間「なに、原子の周期律表だと。原子って何か同じものから出来ているらしい」と状況が変わってきました。人間の思考は、原子と原子核が電子と電子核に到達したのです。「わかった。すべてのものは原子と電子核か。電子の数により物質が変わるのだな」これが周期律です。それを見て人間は「わかった」と思ったのです。「これで最終的なものはあったと、実在は原子だった」と考えました。

しかし、原子が素粒子になってしまいました。「素粒子が集まって原子核を作っていく。何ですか、これは!」と思ったのです。「では、素粒子が実在に違いない」と追いかけて行ったら素粒子はエネルギーと物質に交換してしまったのです。素粒子は確率で存在する。どうしようもありません。ですから原子物理学者は参ってしまったのです。物だと思って顕微鏡で見ても、素粒子になると見えないのです。しかし、存在する。存在するということは物なのかエネルギーなのか、波なのか、確定は出来ません。

素粒子は波の性質も持ち、物質の性質も持ち、物質かと思うと波になってしまいます。素粒子を「ポン」と飛ばします。ここに穴を十個開けると、同時に通ってしまいます。もし、素粒子が物質ならば穴は一つしかくぐりません。ところが素粒子は物質だと思って電子(光)を当てると穴が五つ開いていれば五つの穴から光りが同時に通ってしまいます。すると、素粒子は波であるのかと思います。それが、もっと進むと最終的な物質とは、見る時にはあるけれど、見ない時には無いのです。

有名な話しで、アインシュタイン(一八七九年〜一九五五年)が怒りました。「そのような馬鹿なことがあるのか。物質の根元は有るに違いない。絶対に有るに違いない!」と彼は怒った。それで、有名な言葉「神はサイコロをふるのか。神はサイコロを振らない」と言ったのです。確率のことです。「偶然でものが有るなど有り得ない。ちゃんと法則が有るに違いない」と彼は考えました。確率という法則でしかものは出来ない。原子核があって原子核の周りを電子がピュンピュン太陽系の周りを回っているようにイメージしていますが、事実は全然違います。  

電子核の周りを周っているのは雲です。私達が学校に行っている頃は電子が回っていると習いましたが、現実的には電子というのは雲なのです。電子雲です。それが、見る時には1個になり、姿を現すのです。姿を現していないときには、どうなっているか誰も分かりません。数学的な話しをすると計算が出来ません。微分係数といって一つのグラフを作って、このグラフが何処にいくのかということは微分方程式を使えばすべて分かります。大砲を何度の角度で撃てば何処に落ちるのか、すぐに分かります。すべてのものは計算できると信じたのが物理学です。

ところが量子論になると計算が出来ません。方程式が書けないのです。数学的な処理は確率として処理します。方程式は書けなければならないのですが書けないのです。確率です。物理学者達は参ってしまったのです。物質の根元は無かったのです。現在の物理学はそこまで理解されています。

我々が知らなければならないことは、物質の一番の根本はどうやら心と関係しています。そのことをもっと分かりやすく言うと、いつも私がよく言っていることです。自分が死んだらどういう世界が残りますか。浜田君の頭の中では、人間と世界はそっくり残っていると思います。しかし、残っていません。ではネズミの世界はどうでしょう。ネズミもゴキブリも皆世界を見ています。蝶々の見ている世界も有ります。自分が死んだら世界がこの世にあると思うのは勝手ですが、この世には無いのです。誰の世界が正しいのか。浜田君が見ている世界はどういう世界かというと、浜田君だけの世界です。それが、因果倶時です。浜田君がどのように見えても、浜田君が行ってきた、浜田君の世界を、浜田君が見ているのです。それは浜田君の世界であって、浜田君以外の世界では有りません。これだけ人間がいると、共通してだぶっている部分で見ているだけです。本当は、浜田君のみの世界です。死んでも無くなりません。  
浜田君 「自分は死んだら終わりですよね」

今見ている世界は浜田君の世界です。死んでも無くなりません。「この世界」と思っていることが錯覚です。「この世界」は浜田君が死んだら残ってはいません。浜田君の見ている世界と、私が見ている世界はすでに違います。ただ、共通項があるから話しができるだけで、本当は浜田君が見ている世界と、私が見ている世界は違います。浜田君だけの世界を、浜田君が見ています。それを浜田君の錯覚の中では、客観的な三人称の世界を見ていると思っているのです。三人称の世界など存在しません。すべて自分の世界です。無くなりません。

もっと分かりやすくいうと、浜田君が死ぬと、天台大師の教えによれば必ず浜田君が居る国土が有ります。土(ど)が有ります。死んだとします。また、意識が出た時には土が有ります。そこには、必ず自分以外の生き物が居るのです。お母さんが居ます。そして、そこには必ず自分の五感を持ちます。無くなりません。客観的に自分を見て自分が無くなるのではなく、主観的に自分の存在・実存は何かとみていくと分かってきます。「なるほど。俺の見ている世界か」無くなりません。夢の中でも自分を感じます。夢など実体は何も無いはずです。夢の中でも何か有ると思いますが、同じことです。夢は夢ですが、死んでも夢の大きいようなもので、必ず何かを感じます。それは永久に無くなりません。無間地獄に落ちると、永遠の苦しみを感じとってしまうことになります。これが生命の実相です。

宗教は信じたものにより結果がすべて違います。そのことを如説修行抄で学んでいきましょう。

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* 1 伝教大師…神護景雲元年(七六七年)〜弘仁十三年(八ニニ年)平安初期、日本天台宗の開祖・最澄のこと。十ニ歳で出家し、近江国分寺の行表に師事した。延歴ニ十三年(八○四年)に入唐して天台の義、および禅、真言を学び、翌年帰国し延歴二十五年(八○六年)天台宗を開いた。
*2 空海…宝亀五年(七七四年)〜承和ニ年(八三五年)弘法大師空海のこと。
* 3 良観…健保五年(一ニ一七年)〜嘉元元年(一三○三年)極楽寺良観のこと。鎌倉時代の律宗の僧。文永八年(一ニ七一年)全国的に大旱魃が続き、良観は祈雨の法を行ったが、良観には雨を降らす力はないとする日蓮大聖人と法験を争った結果、良観の敗北に終わった。
* 4 阿仏房…日蓮大聖人御在世当時の信者。大聖人の佐渡流罪中に折伏を受けて、念仏を捨てて妻の千日尼と共に帰伏したとされる。大聖人が流罪赦免となって鎌倉に帰るまでのニ年余り、大聖人に給仕し、大聖人の身延入山後も、高齢の身で三回にわたり御供養を備え身延をたずねている。弘安ニ年(一ニ七九年)三月ニ十一日死去、時に九十一歳とも伝えられている。
* 5 天台大師…梁大同四年(五三八年)〜隋開皇十七年(五九七年)中国南北朝・隋代の天台宗開祖。十八歳の時に、果願寺の法緒のもとで出家し、慧曠等から方等・律蔵等を学び、大賢山に入って法華・無量義・普賢観の緒経を修学した。


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