正理会 本部において、中杉 弘博士の仏法講義が行われました。                        
                 
如説修行抄 第一回     

   「如説修行抄」について勉強します。これは文字通り「説の如く修行する」という教えです。日蓮大聖人様が「どのように修行したら良いのか」について私たちに教えて下さっているのです。この末法に置ける仏教の修行、どのように修行していけば私たちは仏になれるのかが説かれているのです。今日は以下の御書を勉強します。

  (本文)

  如説修行抄              
                                                   文永ニ年聖寿五十ニ歳
                                              佐渡一の谷にて門下一同に与う

 夫れ以(おも)んみれば末法流布の時・生を此の土に受け此の経を信ぜん人は如来の在世より猶多怨嫉(ゆたおんしつ)の難甚しかるべしと見えて候なり、其の故は在世は能化けの主は仏なり弟子又闘諍堅固(とうじょうけんご)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)・三毒強盛の悪人等なり、故に善師をば遠離し悪師には親近す、其の上真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後(きょうめつどご)の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後(ゆたおんしつきょうめつどご)・況滅度後と朝夕教へし事は是なり・予が或は所を・をわれ或は疵(きず)を蒙(こうむ)り・或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるるを見聞くとも今始めて驚くべきにあらざる物をや。 


 (講義)

 法華経、真理を説く者は、お釈迦様の在世当時から、必ず猶多怨嫉(ゆたおんしつ)悪口を言われて怨まれるのです。その難が、必ずあるということが経文にも書かれているから間違いありません。これは、お釈迦様に対して提婆達多という者が蛭のようにくっつき悪口をいいながらその布教を妨害したという事実からも分かります。提婆達多はお釈迦様の従兄弟でした。伝説では、お釈迦様が出家する前のヤショーダーラ妃(耶輪多羅女)というお妃に、提婆達多が惚れていたらしいのです。ヤショーダーラ妃がお釈迦様を愛してしまったので、それから提婆達多はお釈迦様を憎んで「一生涯おまえにつきまとってやる」と言ったそうです。お釈迦様は家庭も身分も全て捨てて仏道に入ったのですが、それでも提婆達多は「一生つきまとってやる」と、お釈迦様が出家修行しているところまできて、一緒に自分も出家してお釈迦様が「悟った」と言えば、「俺のほうが悟った」と言い、お釈迦様が法を説けば、「俺の法のほうが立派だ」と言い、終生つきまとったのです。猶多怨嫉があり、初めて自分が正しい道を歩いていることがわかるのです。正法を説くお釈迦様には九横の大難といって、九つの大きい難があったと経典に書かれておりますが全て提婆達多による妨害でした。お釈迦様が崖を通れば石を落として命を狙い、象にお酒を飲ませてお釈迦様を殺そうとするなど、様々な迫害をして九つの難を起こしたのです。お釈迦様が説法をしていると「釈迦を見ろ。この女は釈迦の子を身ごもっている。釈迦の言う戒律は嘘だ。女犯をしている。釈迦の説法を聞くな」と、お釈迦様が説法をすると、すぐそばにきて邪魔をするのです。猶多怨嫉というのです。

 提婆達多は最後にどうなったかというと、最後には大地がいきなり割れて、大地の中に吸い込まれて死んだと言われています。これは、釈迦伝の中に書いてある話しなのです。提婆達多は地獄に行ったのです。これは当然のことです。しかし、お釈迦様は提婆達多に対してどのように言ったかというと、この提婆達多は地獄に行ったけれども、やがて長い間生まれ変わって華光如来という仏陀に生まれ変わるのです。悪人ですらも、最後は私に敵対する因によって、一旦地獄に行くけれども、その地獄から這い上がって未来の華光如来という仏になると法華経に書いてあるのです。このように様々な難というものは、昔からあるのです。

 「末法流布の時・生を此の土に受け此の経を信ぜん人は」南無妙法蓮華経を信じる人のことです。「如来の在世より」・お釈迦様の在世よりも「猶多怨嫉(ゆたおんしつ)の難甚しかるべし」九横の大難のようなことは、我々には無いけれども悪口は言われます。「あいつはきちがいだから付き合わないようにしよう」とか、会社に行ったら「あいつは信心しているから辞めさせよう」とか、そんなことは最初からついてまわるものなのです。世間へ行けば世間の人からは陰口を言われます。

 その故は、どうしてかというとお釈迦様がいらっしゃった在世というものは、「能化の主は仏なり」といって、お釈迦様の在世のとき仏陀とは釈尊のことです。また、弟子も大菩薩・大阿羅漢なのです。お釈迦様の時は、これは非常に難しいのですが、お釈迦様の十大弟子というのは、いきなりインドに生まれてそこで十大弟子になったのではないのです。遥か昔、お釈迦様の前世より生まれ変わり弟子となり、また生まれ変わり弟子となり、また生まれ変わり最後に皆成仏しようとする人がお釈迦様のもとに生まれたのです。ある程度仏道修行が完成している人間がお釈迦様と一緒にこの世にでてきたのです。機根がいいのです。もう成仏するという根性が決まっているのです。末法とは本有未然といい末法に生まれた我々は、お釈迦様と共に過去世に仏道修行をしていないのです。ですから、自分のお父様のようなお釈迦様と一緒に生まれてこないのです。そのような時代であり、お釈迦様の仏法は効力が無いのです。

 「人天・四衆・八部・人非人等なりといへども、調機調養(じょうきじょうよう)して法華経を聞かしめ給ふ猶怨嫉多し」ここが大事です。そのようにして悪人・色々な人に、お釈迦様が何回も何回も生まれ変わって、何回も何回も何回も説法して、それを聞いて大菩薩になってお釈迦様の周りに集まっているのだけれど、「猶多怨嫉多し」なのです。お釈迦様じたいが王子の生まれなのです。王子の生まれで頭も良く、当時第一の剣の使い手であって、学問もできて、ハンサムで、女性にももてて、王族であり、すべて素晴らしいわけです。そこからもう末法に生を受けた我々とは根本的に違います。生まれた時から生活には何の不自由もなく生まれたのです。何故、王族に生まれたかというと、王族に生まれたならこの世のことは何でも叶うのですが、しかし王様になっても叶わないものが一つだけあります。これは、生と死を超越してあの世がどうなっているのか、永遠の未来ということは王様はわからないのです。王様は権力者であるから権力の範囲内ではわかり、何でもできるけれども、死んだ先のことはわからないのです。お釈迦様が王子に生まれたということはそういうことなのです。何でもできてそういう身分に生まれたのですが、生と死ということが、自分の人生において自由にならないのです。それを明かにする為に、所謂、伽耶城の王宮を捨てて初めて山に入ったのです。

 お釈迦様が凡夫でしたら人生成功できないから無常を感じて世捨て人になって出家の道に入ったと言われます。人生の成功を諦めて、山に入って悟りを得ようとしたと言われます。ところが、この世のことは何でもできる立場だったけれども、それを捨てて出家をしたのです。そうすると、何をお釈迦様が求めたのかということは明確になります。俗世間の努力では得られないもの、それは生と死という問題なのです。生死の二法の問題は、王様になっても得られないのです。ですから、仏教というものは非常に上品で贅沢なものだとわかります。出家できるということは身分が良いのです。お釈迦様と一緒に出家の道に入った皆も身分が良く生まれて、昔からの家来でした。そのような関係にもかかわらず、最後にお釈迦様が法華経を説法しようとしたときに、猶多怨嫉したのです。お釈迦様が「これから本当の教えを説いてあげましょう」と言ったときに「いいえ、結構です。私はお釈迦様の教えを充分聞いたので、それ以上のことは聞く必要がありません。失礼します」と言って席を立って帰ったのです。このことは、法華経に書いてあります。お釈迦様が「これから真理を説きます」と言ったならば、多くの人々が「それは聞きたくありません。失礼します」と言って帰ったのです。これも猶多怨嫉なのです。お釈迦様が「一番最後の大事な真理を教えましょう」と言ったときに、「それは結構です」と言ったのです。今でもそうです。そのようなことは真理を説こうとするとたくさんおきてくるのです。

 「何に況んや」お釈迦様の在世の時でさえもそうなのです。「末法今の時は教機時国当来すといへども、其の師を尋ぬれば凡師なり」お釈迦様の時代ですらそうだったのですから、日蓮大聖人様が凡夫であっても末法の教主だということを口では言わないけれどもわかりなさいと言っているのです。日蓮大聖人様は皇族の生まれでもなければ、貴族でもないとご出生を明かにされておりません。御自分では東条の安房国の小湊の栴陀羅の息子だと言っているのです。僧階を見れば大僧正でもなければ、僧正でもないのです。僧の位すらあるかどうかわかりません。乞食坊主のような身分で高貴な人に支持されているわけでもありません。それで「法華経は最高の法です」と言っても誰が信じるでしょうか。皆悪口を言うのにちがいありません。そのようなことは当たり前のことです。お釈迦様ですら真理を説く為には悪口を言われました。しかも、末法は機根が悪いのです。良い人間が一人もいない中において、乞食のような日蓮大聖人様が南無妙法蓮華経をお説きになるのです。悪口を言わない人間がいないはずはありません。これをわからないと駄目です。

 「其の師を尋ぬれば凡師なり」末法に生まれられた仏様は凡夫のお姿なのです。立派な格好をしているわけでもなければ、天台宗の大学僧でもなければ、名のある武士でもないのです。恐れ多いことですが私もそうです。私が大僧正で金ピカの着物を着て偉そうなお寺に入って「中杉大僧正の有難い法華経の説法を聞きましょう」と言ったなら多分、大勢の人がきます。ところが僧の位もなく粗凡夫そのものの私が法華経を説こうとしても、なかなか聞く人はいません。世間とはそういうものです。「弟子又闘諍堅固・白法隠没・三毒強盛の悪人等なり」大事なところです。末法というのはどういう人間が生まれてくるのかというと、闘諍堅固・戦いが大好きで戦う事に命を賭ける人間が生を受けるのです。「ぶっ殺せ!」「やりやがったな!」闘諍堅固・戦うことを堅く灯すのです。アフガニスタンみたいなものです。六歳の子供になると、もう狙撃を教えるのです。今日テレビでやっていましたが、六歳の子供になったらもう狙撃兵なのです。凄い世界です。闘諍堅固です。争い・人殺しです。生まれて気がついたらもう人殺しです。アフガニスタンの平均寿命は四十五歳といいます。若いうちから殺されたり殺したりしているからです。末法は闘諍堅固の時代なのです。

 世界貿易センタービルを破壊したのもこの現証の一つです。一瞬にして自分も死ぬことになるのに、飛行機の乗客ごと突っ込み、一万人以上の人を殺すという事は、まさに闘諍堅固なのです。闘諍堅固が末法の時代相なのです。それから、白法隠没・白法が無くなり出てこないのです。この白法という解釈は、お釈迦様の仏法を白法といいます。全ての人の罪を減し白紙のようにきれいにする法だから白法というのです。その有難いお釈迦様の仏法は二千年で切れてしまったのです。二千年の後は末法なのです。ですから白法隠没・お釈迦様の素晴らしい教えが無くなってしまったという意味です。

 では、日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経はどのような法かというと、白法に対して大白法というのです。この違いがあるのです。日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経というのは白法が隠没して、出てきた大白法の法なのです。お釈迦様の白法とは妙法蓮華経のことなのです。末法の南無妙法蓮華経とは大白法のことなのです。ですから、日蓮大聖人様のことを「大聖人」と呼ばなければならないのです。「日蓮聖人」と言うと、普通の偉さの人のことを言うのです。「大」がついたときに、仏様の位を表すのです。大石寺の富士門日興門流については、必ず、「日蓮大聖人」と称し奉るのです。「日蓮聖人」というのは相対化した姿なのです。日蓮大聖人様は、「大聖人」なのです。最近それを真似して「日蓮大聖人」と言っているところが多いですが、「大聖人」がついたら寺のお坊さんではなく、本仏なのです。これが、白法と大白法の違いです。しかも、三毒強盛の悪人・が末法に生まれてくるのです。三毒とは貧瞋癡です。貧(とん)はむさぼり、瞋(じん)はおろか、癡(ち)は疑い深いことです。この貧瞋癡・物事がわからず、むさぼって、何がなんだかわからない三毒強盛の悪人・仏法を求めない悪人が末法に生まれてきているのです。

 白法隠没・闘諍堅固・戦うことのみが好きで人を蹴落とそうと考えて、しかも貧瞋癡慢疑(むさぼり・いかり・おろか・まんしん・うたがい)という三毒強盛の人間が末法に生まれてきているのです。「故に善師をば遠離し」・正しい師を避けるというのです。これは大事なことです。オウムの麻原・大川隆法のような悪い師のところへは行くのです。正しいことを教えてくれる人を・「善師をば遠離し」いやがるのです。ですから、私たちがいやがられているということは経文通り読んでいるということなのです。「中杉さん、教えてください!」と言って黙っていても人々が集まってくるならば経文と違うのです。末法は嫌われて遠離されるのです。「悪師には親近す」まさにその通りです。オウムの麻原には親しく親近するのです。池田大作には親しく親近するのです。「其の上、真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり」そのように、悪人ばかりいるのですから、正しい法を説く人にはついてきません。それだけではないのです。この仏教を修行する日蓮大聖人様を信じる法華経の行者となった瞬間に、三類の敵人が決定するのです。お釈迦様に提婆達多がついてきたように「日蓮大聖人様を信じて一生涯信仰します」と言った人間、決意した人間には、ただちに三類の敵人・仏法の敵の悪魔がついてくるのです。三類の敵人とは、僣聖増上慢・道門増上慢・俗衆増上慢です。仏道を修行する人を邪魔しようとして三類の仏法の敵が、信仰を決意した人についてしまうのです。僣聖増上慢というのは、立正大学で仏法を学んだり、或いは東大で仏教学を学んだというような人達が「法華経は大乗仏教非仏説論といって、釈迦の説いたものではないのです。あれは、過剰説といって四百年後に作られた偽経典でなのです」と言うのです。これを僣聖増上慢というのです。学者、或いは偉いお坊さんと称する人が「いまどき、法華経・日蓮なんてくだらないことを言うのではない」と囁いてくるのです。

 もう一つの俗衆増上慢というのは、親とか兄弟です。「私はあなたのことを心配しているのよ」「変な信仰をするのはよしなさい」「今に大変なことになるわよ」「信仰を辞めるのよ」何も自分ではわからないくせにそのように言ってくるのです。これを俗衆増上慢というのです。

 僣聖増上慢とは、ある程度勉強して世間的には立派そうに見える人が言ってくるのです。それから、偉いお坊さん。これが道門増上慢です。同じ日蓮正宗でもお坊さんが「大石寺の御本尊だけを信じなければだめです」とか言ってくるのです。それを道門増上慢というのです。わけもわからず言ってくる人達が俗衆増上慢です。勉強した学者が言ってくるのが僣聖増上慢です。この三つともが魔の働きなのです。この魔の働きをもった人が信仰を辞めるように言ってくるのです。  

 これが末法における我々の位置づけなのです。末法という時は白法が隠没して、お釈迦様の仏法が無くなった時期なのです。そこに生まれてくる人間というのはどいうい人間かというと、闘諍堅固・戦うことのみが大好きで、白法隠没・三毒充満の悪人が生まれてくるのです。しかもその中で「日蓮大聖人様を信じます」と言った人間には、三つの敵人・僣聖増上慢・道門増上慢・俗衆増上慢という三つの増上慢の人達が「辞めなさい」と言ってくるのです。どこにいっても信心してよかったという人は一人もいません。その中において摂受などというものは通用しないということをいっているのです。末法は悪人が生まれてくるのです。正しい人を求めず、逃げ周って、悪い師のところにすぐ行ってしまうのです。そして、貧瞋癡慢疑の強盛で、更に敵人・僣聖増上慢・道門増上慢・俗衆増上慢という三類の強敵がでてくるのです。俗衆増上慢とは親とか兄弟が「辞めたほうがいいわよ」と偉そうに言ってくるのです。しかも、かなり強く言ってくるのです。日蓮大聖人様は「強敵」と言っているのです。マスコミ・学者が言ってくるのを僣聖増上慢といい、道門増上慢というのは坊主と称する者がなまいきなことをいってくるのです。最初から敵人が決まっているのです。

 「されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし」さればこの南無妙法蓮華経を信じようと思った日より思い定めることは、「況滅度後(きょうめつどご)の大難の三類甚しかるべしと」これは、お釈迦様が滅度においた今においては本当に大きな大難が来るのです。ですから、創価学会がここまで大きくなったのは、全く日蓮大聖人様の教えと違うようになってしまったからなのです。これは魔の働きなのです。戸田先生には魔が入りようがなかったのです。それが、池田大作に魔が入ってしまったのです。ですから日蓮大聖人様の教えと違うものになってしまったのです。魔なのです。これを我々は鏡として絶対そうなってはいけないのです。我々にとって創価学会の姿とは鏡なのです。魔が入った姿なのです。あれを見て我々はああなってはならないのです。仏は末法万年を救うのですから必ず魔が競ってくるのです。

 されば此の経を(南無妙法蓮華経)を「聴聞」信じようとした始めの日よりこのことを思いなさい。「然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども」私の弟子にも兼ねてそのことは言ってきたけれども、「大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ」恐ろしいことです。自分が法華経の信者であるという証明なのです。

 兼ねて日蓮大聖人様が言っているのに、日蓮大聖人様が竜ノ口に連れていかれると、「信仰を辞めるなら今のうちだ。俺も首切られてしまう。お役人が来たら俺はもう法華経なんてもともと信じていません。南無阿弥陀仏を信じていますだと言うべえ。」などと、みんなで言い合わせた人達もいるのです。みんなで言い合わせるわけです。「いいか、日蓮大聖人様が捕まって大変だ。役人が来たらみんなで信じていませんと言おう。南無阿弥陀仏と言えば助かるのだからみんなでそう言おうぜ。」とあちらこちらで言ったのです。

ところが四条金吾だけは違ったのです。日蓮大聖人様が馬に乗せられて鎌倉竜ノ口で首を切られるという大難に遭った時にパッと現れて馬のくつわに取りすがり「私も御一緒に死にます」と言ったのです。これが信仰というものです。その時に逃げたような人達は最低です。日蓮大聖人様が言っているのです。難が来た時に逃げたら終わりです。その瞬間にその人には一生退転の烙印が押されてしまうのです。もうだいじょうぶだから戻って来ようと思っても戻れないのです。正体を見られてしまうのです。恐いことなのです。いくら自分が信仰をしようと思っても一旦逃げたということが足かせとなって昇れないのです。一旦地獄に入ってしまうのです。

 師匠が法難に遭ったらどうしたら助けられるか考えるのが当たり前のことです。それを逃げるとは情けないことです。そのような種類の退転は絶対に立ち直れません。それだけははっきりとしています。「我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ」まさにこの姿なのです。

 「兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後(ゆたおんしつきょうめつどご)・況滅度後と朝夕教へし事は是なり」信心というのは経文が先にくるのです。日蓮大聖人様の教えが先に来るのです。自分という凡夫が教えに従っていくのです。自分の考えでもって教えを破るということはありえないのです。「南無妙法蓮華経を破る」と決意しても破ることは出来ないのです。絶対教えを重視していきなさい。このことはよほど注意していかないと、いくら口で「信仰しています」と言ってもそうなってしまいます。そうなったとたんに永遠の地獄の随地獄の因を負ってしまうのです。「予が或いは所を・をわれ」・日蓮大聖人様のことです。日蓮大聖人様が住んでいると「くそ坊主あっちに行け」とすぐに石を投げられるのです。「或は疵(きず)を蒙(こうむ)り」棒でぶたれるのです。住んでいたら「どけ」と言われ、ここに居たら殴られるのです。「或は両度の御勘気を蒙りて」政府の怒りをかって「遠国に流罪せらるるを」島流しが伊東と佐渡島へ二度、「見聞くとも今始めて驚くべきにあらざる物をや」・見て聞いても始めてこれは驚くべきことではないのです。

 今日はここまでですが、日蓮大聖人様が法華経の行者であるということを証明する為に天が二度の島流しと一回の首の座と、石を投げられ、焼き討ち、軍勢をもって押しかけられるという大難・一生を通じて難を与えたということは日蓮大聖人様が真実の末法の法華経の行者の証明なのです。日蓮大聖人様はこのようにも言っています。自分に比べたらお釈迦様の難といってもたいしたことはない。仏法の為に難に遭った人間は多いが自分のような難に遭った人間はいない。自分で言うのもおかしいですが、私が法難第一であると言われているのです。島流しに一度遭った人間はいますが、二度遭った人間はいないのです。首を切られようとした人間は居るけれども、首を切られようとして、軍勢をもっておしかけられて、腕をへし折られて様々な難に遭ったというのは「日蓮一人である」というご自覚なのです。ですからこれは末法の法華経の行者の証明の為に諸天善神がそのようになさったのです。

 しかもどのように日蓮大聖人様を殺そうとしても殺すことは出来なかったのです。殺されてしまったら、仏様ではないのです。「我等のキリストは罪を負って殺された」とキリスト教徒が言ったように日蓮大聖人様はこれから末法の多くの衆生が悪口を言ってくるであろうと、その罪を一身に負われて仏であることを証明されたのです。ですから、弟子である我々も悪口を言われるのは当たり前なのです。仲間はずれにされるくらいは当たり前です。そんなものは痛くもかゆくもありません。最後は必ず勝つのです。

 先ほどの四条金吾もそうです。日蓮大聖人様と「一緒に死にます」と言って、最後はどうなったでしょうか。法華経を信じるが故に「貴様は出仕に及ばず」と閉門蟄居されて本当に苛められたのです。ところが、日蓮大聖人様が色々指導されて、それが四条金吾殿ご返事で御書にたくさん載っています。「表を歩く時は気をつけなさい。敵はおまえを油断させて殺そうとしているのです。いつも題目を絶やしてはいけません。夫婦そろって部屋の中でお酒を飲んでいればいいではないですか。静かにしていなさい。そのようにやっていなさい。今に時が来ます」と指導されたのです。時がちゃんと来たのです。主人のほうが大病になって治らなくなったのです。ついに困って色々な医者に行っても治らないのです。四条金吾は医者なのです。主人から、「四条金吾を呼んできてくれ。」と使いがくるのです。四条金吾は日蓮大聖人様に「実は私の主人が病気を治してくれと言ってきたのですが、行ってよろいですか」と聞くのです。すると日蓮大聖人様は「行って来なさい。見事に治してきなさい」と言われたのです。四条金吾は主人のところに行き、見事に病気は治ってしまうのです。治った結果、四条金吾は所領をニ倍にされて、鎌倉中に「あれが法華経の行者の四条金吾だ。」と言われるのです。そういう信仰をしていかねばなりません。

 臆病風に吹かれないで、信仰ある者は最後に必ず勝つのです。法華経を信じた人間は必ず勝つのです。世間にどう思われようと関係ないのです。御書を勉強して本当に皆もっと強くなってもらいたいと思います。我々は殺されることも無く、法難に遭ってもわずかの間です。日蓮大聖人様の時代に比べれば、悪口を言われたり、無実の罪で法難に遭ってもゴミみたいなものです。最後は成仏という永遠の大功徳を頂戴できるのです。信仰を一生貫いていくという自覚を持てば、皆がそう思えばこの教団は大発展して、日本を救っていくことができるようになるのです。

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